アメリカ組 50周年
2014年 10月 27日
大きな目的は、敗戦から復興した日本の少年達からの日米親善使節、リンカーンセンターのこけらおとし、シカゴではマッカサー追悼公演、エドサリバンショーに出演するのが3大イベントだったのです。ところがエドサリバンショーがあまりの評判で、見ていた全米の都市から次から次にオファーがあったのです。
さあそれからが大変、3週間の予定の公演はドンドン増えていき、倍の40日間になったのです。3月22日羽田空港で盛大な見送りを受け4月中旬帰国予定が、ちっとも帰らず、何と5月の連休に戻ってきたのです。僕は知らない間に6年生になってましたし、一級上の板野さん(下段右端)に至っては小学校を卒業し、中学生になってました。
昼食会では副指導者で最年長、当時高校3年の長谷川冴子(写真下段中央黒マフラー)さんから、様々な知らなかったエピソードが出るわ、各々も演奏旅行中のトラブルやビックリした事なども飛び出して、大変愉快な会でした。
とりわけ僕も子供で何も知らなかった、冴子さんとの最終地サンフランシスコでのお別れ(一人残った)。実は演奏旅行中のアイオワ州デュビュクでクラーク大の音楽学科への留学試験を受けていたのです。毎日の演奏会の合間に何というウルトラC!トップで声楽科に受かり、全額スカラシップさえも確保していたのです。
この時期、少年と少女とでは体格も知能も何もかも少女が上、さらに学年も少し上だったので、少年達の記憶の多くは楽しかったり悲しかったり寂しかったりばかりだけど、冴子さんの留学試験を筆頭に、少女はNYでビートルズ(最初のマジソン公演と重なった)を追っかけなどもしているのです。
出発時にはビザが出ているのにパスポートが降りず苦労したそうだが、ライシャワー大使が外務省へ出向き一発でパスポートが貰えたこと。アメリカの大学を出たばかりの小林さんという女性が、急遽自費で通訳で同行してくれたのだが、それは団員父母の知人で当時の富士ゼロックスの小林社長のお嬢さんだったこと。様々な方々の援助や支援で実行できた、日本初の子供の日米親善使節だったのです。
東京オリンピックや東海道新幹線開業、50年前は日本も空前の開発ムード、そんな中、文化面、とりわけ音楽ではで劣っていた日本の音楽親善使節、そして公演が大成功だったこと、僕ら自身はやはり感慨深い。
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go-shiyo
at 2014-10-27 09:49
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多感な少年期に貴重な体験をされましたね。50年前の32名!そして何よりこうして、現在17名の再会が出来ることの豊かさが、その後の人生を表現している笑顔たちです。
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shinmemo0417 at 2014-10-27 22:42
怪人殿
有り難う御座います。
後輩でシンガーソングライターになった山本達彦は「この時代が僕の最高の時代だった」などと申しております
それは事実で参加したメンバーの殆ども同感かもしれません。
そのくらいこの時代は濃く熱く、そして尋常でないくらい頑張ったんです
ラグビーだけでなく、僕の子供時分には合唱隊の体験は大きな位置を占めてます
有り難う御座います。
後輩でシンガーソングライターになった山本達彦は「この時代が僕の最高の時代だった」などと申しております
それは事実で参加したメンバーの殆ども同感かもしれません。
そのくらいこの時代は濃く熱く、そして尋常でないくらい頑張ったんです
ラグビーだけでなく、僕の子供時分には合唱隊の体験は大きな位置を占めてます
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j-garden-hirasato at 2014-10-30 06:50
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shinmemo0417 at 2014-10-30 16:49
by shinmemo0417
| 2014-10-27 20:23
| Travel&Railway
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Comments(4)